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なぜ、デモをやるのか?

 デモとは、路上でくりひろげられるストライキである。わたしたちはただ愉快におどり、このクソみたいな社会にツバを吐きかける。

 わたしたちは、いつも他人の評価にさらされている。自分はつかえるやつだとおもわれたい。他人のまなざしが内面化される。労働者という仮面をかぶれば、たくさん賃金をもらって、自分をよくみせなくてはいけないとおもってしまうし、主婦という仮面をかぶれば、しあわせな家庭をよそおわなくてはいけないとおもってしまう。学生という仮面をかぶれば、将来、よりよい労働者になろうと必死になってしまう。

 わたしたちが路上にでるのは、この強迫観念のような社会的人格がそこで形成されているからだ。すべてはショッピングをたのしむこと。どんな買い物をして、どんな格好で街をぶらつくのか、それがわたしたちの個性をきめる。よりよい大学をえらび、よりよいカリキュラムをえらぶこと。それは多様な商品のなかから、ひとつの商品をえらぶということだ。どれだけ自分をみがき、どれだけよい就職先をえらべるのか、いまやはたらくということも、ショッピングみたいなものになっている。うまく就職できなかったり、仕事をうしなったりするのも、自分の選択の結果とされる。わたしたちは、みずからすすんで貧乏になっているのだろうか。あたかも、それが自分の個性だといわんばかりに。

 わたしたちは、デモによってただひとつのことを宣言している。なんの役にもたちはしない。

 かつて、工場でストライキをうつということは、物的要求もさることながら、はたらく時間のながれをとめて、自分の人生を問いなおすという意味をもっていた。資本家の役にたたなくてもいい、なんの役にたたなくてもいい、いちどあたまを空っぽにして、豊かな生を手にしようとする。それがストライキの意味であった。路上でもおなじである。わたしたちは、食料をうばいあう山猿のように、聞くにたえないようなさけび声をあげる。猛り狂った野馬のように、身体を前後にゆさぶりながら跳躍をする。それは社会的人格に亀裂をはしらせ、むりやりかぶせられた人格の仮面をひきはがす行為である。労働者、学生、消費者、主婦……、社会的人格のすべてをかなぐりすてる。肩書きなんて関係ない。ただのひとの群れが生じる。空っぽになれ。

 もしかしたら、うんざりした表情でデモをみつめるサラリーマンやカップルにでくわすかもしれない。そんなときはおもいきり指をつきたてて、罵声をあびせかけてやればいい。「おとうさんは社畜だったのよ」。いちどやつらの唖然とした表情でもみれば、もうたのしくて、たのしくてしかたがなくなってくる。他人のまなざしなんて、たかがしれている。役にたたなくてもいい。好きにさけび、好きにおどれ。

 社会のために生きるのはもうやめた。これだけ大勢のひとが貧しさにあえいでいるのに、みなさん個性がありますねといって、手もさしのべてくれない社会なんて、はたして必要なのだろうか。だいたい人生のレールが何本かひかれていて、それを選択するのが個性だなんていうのがおかしい。はじめから、他人によって生きかたが決定されているのだから。

自由とは、いつでもあたまを空っぽにして、ゼロから自分の生きかたをきめられるということだ。わたしたちは、ふだんそうやって生きている。だが、かんじんなところでは、社会のレールにたぐりよせられてしまう。そんなときは、躊躇せずにデモにいこう。すべてをかなぐりすてて、なりふりかまわず、さけんでおどろう。役たたずといわれてもいい。そのぶざまなすがたをなんどでもみせつけよう。いつだってゼロになる。

 デモとは、社会にたいする敵対性の表出であり、無用者の生にひらきなおる行為である。

全国学費奨学金問題委員会@東京
栗原康
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